あなたが「道徳を守らなくてはいけない」と思うのは、あなたが「道徳を守らなくてはいけない」とです。どこまで自分を苦しめるつもりですか?

「ほめる」と「けなす」は表裏一体

学校教育は残酷だと思います。

勉強の価値が説かれ、勉強する人が褒められ、勉強しない人が注意され、勉強の出来によって明確に数字や記号で評価され、多くの親も基本的にはそれに沿う形で褒めたり叱ったりします。まあ、露骨な言動をするかどうかは人によりますけどね。

そんな環境に十年間ほども浸され続ければ、そりゃあ、いくらかは「学歴が全てじゃない」「勉強なんて社会では役に立たない」などとような子たちが出てきてしまうのは至極当然の結果です。誰にでも苦手なものはあるし、そもそも興味が湧かないということだってあるでしょうに。

何かの価値を唱えるということは、同時に、その要件を満たさない人たちに対して、その点においては「価値がない、相対的に低い」と言っていることになるのです。そうでなければ、子供たちは何の筋合いもなく褒められたり叱られたりしていることになりますから。それこそ意味不明でしょう?

当人たちもあまり明確に意識することはないのかもしれませんが、「学歴が全てじゃない」「勉強なんて社会では役に立たない」という発言をしきりに繰り返すのは、それだけ根深く尊厳を傷付けられてきたことの裏返しだと思いますよ。勉強ではありませんが、例えば僕のブログなんかもまさにそうでしょう?w

〇〇は価値がある ⇒ 〇〇以外は価値がない、相対的に低い

という判断は論理的には正しくありませんが、日常会話においては事実上そのような用法になっています。僕も日常会話では正しくない論理のほうを使うようにしています。

価値を唱えれば区別が生まれ、本来なら人それぞれの違いとして認め合えていたかもしれない事柄さえ攻撃の対象になってしまうことがあります。

結婚や出産を当然とする価値観が蔓延する限り、親戚の集まりに次第に顔を出さなくなっていった僕の従姉のような人は後を絶たないでしょう。結婚できない人、結婚したくない人だっているでしょうに。

明るく挨拶することこそを「礼儀」と決めてしまうから、近所の無愛想な婆さんは近所の人たちから陰口を叩かれてしまいます。極度の人見知り、精神障害、そもそも形式的挨拶は不要という価値観の人だっているでしょうに。

座席に順位をつけるから、本来なら誰がどこに座ろうが誰も何も気にせず海賊船の甲板上みたいに無邪気に楽しめていたかもしれない飲み会で、上司が部下を叱りつけたりしてしまいます。もはや言葉も見つかりません。

価値を創り出すということは、確かに幸せを生み出す側面もあります。その価値の要件を満たすために頑張ることが生き甲斐になったり、要件を満たすことによって達成感を得たりと。でもその一方で、同時に不幸をも生み出しているのです。表裏一体なのです。

まあ、一体どこの誰がそんなことをいちいち気にしてしゃべるんだっていう話ですけどねww