あなたが「道徳を守らなくてはいけない」と思うのは、あなたが「道徳を守らなくてはいけない」とです。どこまで自分を苦しめるつもりですか?

無償の愛が存在しないことは江頭2:50で説明できる

無償の愛

それでなくとも美しい「愛」という言葉に、さらに「無償」というこれまた美しい言葉をプラスした、いかにも好まれそうな美辞麗句です。

僕もあって欲しいと思います。そんなモノに包まれて死にたかったと思います。ただ、残念ながらが無償の愛なんてものを持ち合わせた人間が存在する可能性は限りなく絶無に等しくあり得ないことなのです。

それは実に簡単明快な理屈で説明できます。

もしも相手に対して文字通り何の見返りも求めないのであればですよ? つまり、顔でもない、人格でもない、金でもない、関係性でもない、ただただその人の存在そのもの自体を愛していると言うのであればですよ?

じゃあ、例えばですが、その相手の顔を江頭2:50のそれと丸っきり同じに置き換えてみても構わないわけです。置き換えたところで別に支障なく相手を愛し続けることができますよね? だって、顔なんて関係ない、その人の存在そのもの自体を愛しているわけだから。

じゃあ、また例えばですが、その相手の人格を江頭2:50のそれと丸っきり同じに置き換えてみても構わないわけです。置き換えたところで別に支障なく相手を愛し続けることができますよね? だって、人格なんて関係ない、その人の存在そのもの自体を愛しているわけだから。

同じ調子で、その相手の全項目を江頭2:50のそれと丸っきり同じに置き換えてみても構わないわけです。置き換えたところで別に支障なく相手を愛し続けることができますよね? だって、その人の存在そのもの自体を愛しているわけだから。

でもね、よくよく考えてみてください。

全項目が江頭2:50のそれと置き換わったその人物は、事実上もはや江頭2:50そのものなのです。少なくとも、区別はつけられません。だって、丸っきりのコピーなのだから。

しかも、江頭2:50というのはふと頭に浮かんだだけの一例に過ぎません。そのエックスには他のどんな人物でも代入可能なのです。

ということは、ある1人の人間に対して無償の愛を持っているということは、それはすなわち、他の全ての人間に対しても無償の愛を持つことができるという話になります。つまり、もはや誰が相手でも構わないという結論が導かれるのです。だって、その人をその人たらしめる要素の一切にこだわりを持たないわけだから。

決してネガティブな意図で言っているのではありません。もしも一切の例外なく誰のことでも愛せるような人物がいるのなら、僕はそいつのことを心底尊敬して、一生平伏すでしょう。大袈裟でも何でもなく、そいつはまさしく「神様」です。

でも、そんな奴は絶対にいない。いるわけがない。

全ての人間関係はメリットによる繋がりです。たとえ親子関係であろうともです。さっきも言いましたが、何の見返りも求めないのであれば、もはや対象は何だっていいわけですから。

でも、実際にはそうはいきません。我が子とヨソの子、全く同じように心・手間・お金をかけたりはしないでしょう? そこには我が子でなければならない理由があるはずです。

まあ、多くの親に少なくとも共通するであろうと思われる理由は、我が子が笑顔になることによる親自身の満足感でしょうか。それを見返りとして受け取っているはずです。まさか僕の笑顔でも代替可能ということはないでしょう?

自覚があるかどうかは別として、愛にはきっちりと理由があります。逆に言えば、その理由があるからこそ成り立っているに過ぎない愛なのです。別にダメとか言っているのではなく、当たり前だと言っています。