あなたが「道徳を守らなくてはいけない」と思うのは、あなたが「道徳を守らなくてはいけない」とです。どこまで自分を苦しめるつもりですか?

信仰は持てるものなら持ちましょう

別の記事で、全ての価値観は個人的な好き嫌いに過ぎないという話をしました。人々が価値判断として口にする「正しい」という言葉の用法は、単なる個人的な「好き」に過ぎないのだと。

しかし、だからこそ人間は何かを信仰したほうがいいのだろうなと、今となってはそう思うのです。「いい」というのは、勿論、道徳的是非の話をしているのではなく、単純にメンタルヘルスの観点からですが。

無宗教の国はそうではない国と比べ、自殺率が目に見えて高いようです。そもそも教義自体が自殺を禁じているという理由もあるのかもしれませんが、決してそれだけではないと思います。

因果関係があるかどうかまでは僕には分かりませんが、恐らくはあると勝手に推測しています。

人間は栄養を摂取しなければ生きてはいけないのと同様、心の支えになる何かしらもまた必要なのかもしれません。人によって対象は様々ですが、宗教もそういうモノのうちの1つになり得るのだろうと想像します。思うに、信仰の対象、内容、真偽などは大して重要ではないのでしょう。僕たちがたまたま近くにいただけの相手のことを「親友」だとか「運命の人」だとか思ったりするのと似たような話だと思います。

真偽の話で言えば、天動説なんかが好例でしょう。確か西暦2000年にもなろうかという世紀末までキリスト教は天動説を支持していたと聞いたことがあります。まあ、僕自身も地動説をこの目で確認したことなんてないんですけどねw

内容の話で言えば、念仏なんかはどうなんでしょう? あれの意味内容をちゃんと理解した上で唱えている人って一体どれだけいるのでしょうね。いや、別に理解するべきだとか言っているわけではありません。そんなこと気にもせずに信仰できているでしょうと言っているだけです。

極端な話、たとえ根拠や実績などなくとも、(あくまでも仮にですが)たとえ他者をどれほど苦しめていようとも、問答無用で自分自身を「善」だと信じ込める者は強いです。自分自身が幸福になることを目的とするのなら、それは非常に理に適ったスタンスだと思います。

なぜなら、価値観というものにはどうせ好き嫌いしかないのですから。何をどうしたって好き嫌いにしかなり得ないのですから。だったら、自分を否定したり疑ったりしてしんどくなるだけ損です。気持ち良く盲信したほうが楽でしょう。

宗教を称賛するというのは、昔の自分には丸っきりなかった発想です。一部皮肉っぽく聞こえ得る部分があることは自覚していますが、僕の意図としては本当に素直に宗教の有用性を支持しています。実際に正しいかどうかではなく、「正しい」とところに価値があるという話です。

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メンタルヘルスという観点で考えるなら「価値判断は全て個人的な好き嫌いに過ぎない」だなんて思わないほうがいいのです。そのほうが、自分自身を疑うことも、責めることも、他人に価値観を押し付けることの罪悪感も圧倒的に減らせるはずですから。何より、自己肯定感という最後の砦を築けることが最大の強味になるでしょう。

でも、どうしてもそういう視点をなくすことが人もいます。このブログはそういう人に向けて書いているのです。